吐いた息が空気に触れた途端、寒さに震えるように白く霞んだ。
舞い上がりながら消え行くその白さが何となく名残惜しく、残影を追って空を見上げる。
闇の書事件が終わりを告げ、あの子が天に昇ってから一ヶ月ほど経った空は、あの時と同じように雲に覆われていた。
しかし、そこに暗さは見えない。
雪のように白い雲が、彼女の視界を満たしている。
「はやてちゃん、どうかした?」
栗色の髪を両脇で結った友達の少女が、押してくれている車椅子の後ろから覗き込んでくる。
その顔で視界の空が遮られ、夢から醒めたように目を瞬いた。
「緊張してる……?」
金色の長髪を左右に携えて隣を歩くもう一人の少女が、窺うように問うてくる。
そうやって声をかけてきてくれる友人に、笑みを浮かべながら言葉を返した。
「ううん、なんでもないよ」
そう言って笑いかけると、そう、と、二人の少女も笑い返してくれた。
こうして平穏に友達と話をしている現実を実感するたび、一抹の寂しさとそれを上回る感謝を想う。
「到着だよ、はやてちゃん」
「あ……うん、そうやね」
気がつけば、高い門はもう目の前。
その先に見えるのは、広大な庭と邸宅。
そこには既に、他の二人の友人が待っているはずである。
本日は、月村邸にて久々に五人揃ってのお茶会が開かれ。
そして、もう一つ。
八神はやてが、初めて自力で空を飛ぶ練習をする日であった。
For the Snowy Wind
― 愛しい貴女に祝福を ―
「すずかちゃん、アリサちゃん」
「いらっしゃい」
「先、始めてるわよ」
月村家のメイドの女性に案内された三人を、すずかは笑顔で、アリサはカップを持ち上げて歓迎した。
窓が向かい側一杯に広がって外を見渡せるこの部屋は、すずかとアリサに魔法のことを打ち明けた場所である。
なのはを含めた付き合いの長い三人にとって、お茶会といえば大抵この部屋だそうだ。
「飲み物をお持ちしますね。何がいいですか?」
メイドの女性、すずかの世話を担当するファリンがにこやかに訊ねる。
大きな屋敷を持つような豪華さと共に、メイドなる存在ははやてにとってつい二ヶ月前まで縁がなかったものだ。
お陰で今だ少しばかり返答に緊張する部分もあるのだが、なのはやフェイトはもう慣れているようであっさりと答えた。
「ええと、お任せしますね」
「わたしもお任せします。はやては?」
「あ、うん。ほんならわたしも、なのはちゃんたちと同じものを」
「畏まりました。少し待っていてくださいね」
丁寧に一礼し、紫の髪を緩やかに揺らしながら退出する姿を見送って、なのはたち五人はテーブルを囲んだ。
皆が落ち着いたところで口火を切ったのは、待ちくたびれたという様子でカップを置いたアリサだ。
「ようやく全員揃ったわね。もう一ヶ月ぶりくらいじゃない」
「クリスマスの時が最後だから……それくらいだね」
やや呆れたようなアリサにすずかが続き、苦笑を浮かべたのは集まれない事情を作っていた魔導師三人組。
あのクリスマスの日、魔法のことを話した時以来、別々に集まることはあっても、五人が揃うことはなかったのだった。
「あはは……」
「後処理とか、色々あったからね」
「まあ、一番の原因はわたしやろうけどな」
苦笑を濃くしながら、最後にはやてが付け加える。
実際のところなのはやフェイトには学校があり、基本的に四人までは大抵毎日のように顔を合わせている。
しかしはやては今でも休学中であることに加え、通称闇の書事件の主犯ともいえるヴォルケンリッターの保護者という立場上、自身や騎士達と共に通過しなければならない手続きが山のようにあったのだ。
「シャマルさんたちは元気にしてる?」
「あ、それはアタシも聞いときたいわね」
主になのはやフェイト経由でしか話が来ないすずかとアリサが、はやての家族である守護騎士達のことに話を向けた。
以前から仲が良かったすずかはもちろん、アリサも既に紹介を受けて顔見知りだ。
ヴィータとはそれ以前に会ったことがあるらしくすぐに打ち解け、犬好きゆえに会って早々ザフィーラを撫で回していたりと、アリサも騎士達との仲は良好である。
アリサとヴィータが知り合いだったというのははやても知らなかったことで、その話を聞いた時は世間の狭さを実感したものだった。
「みんな元気にやっとるよ。面接とか試験とかで忙しいんやけどな。ヴィータはちょう飽きてきてるみたいやったなー」
「ふふっ、そうなんだ」
「今日は後から来るんだっけ?」
「うん、そやよー」
その騎士達は、後ほどはやてと合流する手はずになっていた。
はやての飛行練習に立ち会うためである。
「外で飛ぶのは今日が初めてなんだよね」
「そや。ちょう曇ってるのが残念やけどな」
「しかも結構寒いし。最近じゃ一番寒いんじゃない?」
アリサが窓の外に目をやり、気が利かないとばかりに曇り空を睨みつけた。
屋内では暖房が効いていて感じないが、一月の空気はかなり冷え込んでいる。
そんな日に練習することになった理由を思い出しながら、なのはははやての座る隣を振り向いた。
「確か、ヴィータちゃんたちが空くのが今日しかなかったんだっけ」
「うん。みんなして練習の時はついて来るゆうから、日取りが少なくなってしもうて」
はやては一緒にいくといって聞かなかった家族たちを思い出し、顔をほころばせた。
そうやって全員の予定をすり合わせて候補に上げた日程が今日なのだが、その時既に同じ日に友達同士でのお茶会が予定されていて、少々決定に手間取ることになったものだ。
結果としては、騎士達の本局での用事が済むのが遅くなるという事情から、月村家での集まりの後に飛行練習を行うということで落ち着いている。
そしてそこに至るまでに、時間の短縮という目的である提案がなされていた。
「それから、改めてありがとうな、すずかちゃん。庭、借りてまうことになって」
「ううん、気にしないで。これくらいならいつでも協力できるから」
わざわざすずかに向き直り、はやては礼を言う。
その提案が、飛行練習の場としてここ月村邸の庭を借りることだった。
もともと練習には広くて見晴らしのいい場所がいいだろうという話があり、月村家なら十分条件を満たすことと移動時間を取らずに済むことから浮かび上がった案である。
当のすずかに訊ねたところ快諾されて、決定となったのだった。
「飛行練習ねぇ……。あー、もう! これではやても魔法使いの仲間入りじゃない。まったく」
急に声を大きくするアリサ。腕組みのおまけつきである。
アリサも魔力がない以上魔法が使えないことは聞いているが、それでも何か言いたくなるというものだ。
その気持ちはすずかも同じであり、多少羨ましげに向かいの三人を見やった。
「うん、わたしも空を飛んでみたいかな」
「まぁ、なのはやフェイトの馬鹿でかいのまではなくていいけどね」
「馬鹿でかいって……」
その言い方に反論を試みるも、文句あるのとばかりに睨まれてすごすごと引き下がる高町なのは(AAAオーバーの魔導師)。
ちなみにアリサの表現が過剰なわけではない。たとえ相手が魔法に馴染み深いミッドチルダの住人であってもなのはの反論は受け入れられなかっただろう。
それもそのはず、なのはとフェイトが魔法を実演してみせると言ってアリサ達一般人の前でやってのけたのが、桜色と雷光色の打ち上げ花火だったのだ。
その規模といったら、クロノをしてアースラを沈められるんじゃないか言わしめたほどだった。
ついでにそんなものを見てのすずかの第一声が、いつも通りの柔らかい口調で「わぁ、綺麗だね」だったことを思い出したアリサは、隣の物静かな少女に胡乱げな視線を向けた。
「?」
「……ううん、何でもないわ」
もしかしてこの中でまともなのってアタシとはやてだけ!?
幽かに首を傾げた数年来の親友を見て、割と本気で考え始めるアリサ・バニングスであった。
ちなみにはやてが魔法を使えることは聞いているが、なのは達と肩を並べて例の打ち上げ花火を越える砲撃を撃っていたことはまだ知らなかったりする。
それを知った時に自分の常識を疑うことになろうとは露知らないアリサは、現在進行中の考えを強引に切り替えた。
「まあ、それはともかくとして。空飛ぶのって簡単にできるもんなの?」
難しければ諦めがつくというものでもないだろうが、そんなことを聞いてみる。
或いは単なる好奇心か。魔法という未知のものに対する興味はやはり大きい。
「そうだね、魔法としては結構簡単な部類に入るかな」
解説をするのは、なのはとアリサの間に座るフェイトだ。
フェイトは幼少からの勉強で、魔法に関しては魔法学院でもトップを狙えるほどの知識を持っている。
代わりに俗世間的な一般常識にはかなり疎いわけだが、ともかく魔法の込み入った解説といえばフェイトに説明役が求められるのが常のことだった。
「初級の中で少し難しいくらい。魔法を勉強すれば、大抵誰でも習う魔法、かな」
「なるほどねぇ。じゃ、はやてもすぐできそうなわけ?」
「ううん。さすがにわたしはまだまだ初心者やから、そうでもあらへんよ。家でも練習してきてるんやから」
「練習って、それならもう飛べるの?」
「まあ十センチくらいやけどなー。飛ぶとゆーより浮いてる感じや」
「何てこと……っ! 十分仲間入りしてるじゃないっ」
「あはは、まあそうやなー」
はやてが既に魔法が使えることを知ったアリサが腕を振るわせた。
その脳裏に浮かぶのは常識人としてのラインを飛び超えていくはやての姿か。そして取り残される自分。
何やら隣でぶっ飛んだ勢いで展開される脳内劇場を知る由もなく、すずかはこれから空を飛ぼうという友達に視線を向けた。
「今聞いた感じだと、外で飛ぶほうが難しいのかな」
「そやね。ちょっと浮いてるんとはまた違うみたいやし」
「……落ちたりは、しないよね?」
「っ……」
不安を宿した目ですずかが言った。その台詞を聞き、アリサも現実に帰還して心配げな表情を作る。
魔導師側の人間であるなのはとフェイトは何か答えるべきかと考えるが、丁度いい言葉を思いつく前にはやてが明るい声を放った。
「そんな心配せんでも大丈夫やよ。家の子がみんな来てくれるんやから、雨が降ろうが槍が降ろうが問題なしや」
「……それは、別の意味で心配よ」
「うん、でも、その調子なら大丈夫そうかな」
「うーん……だったら、ユーノくんも連れてきた方がよかったかも」
「ユーノくんを……?」
「うん、えっと、何て言うか――そう、クッションみたいなものを作れて、落下の衝撃も和らげられるんだよ。
確か名前は、ええと……」
「フローターフィールドだね。結界魔法の一種で、普通は足場を作ったりするのに使う魔法だよ」
「そう、それそれ! さすがフェイトちゃん!」
「あ、うん。ありがとう、なのは」
なのはに手放しに褒められ、フェイトは頬を染めて笑みを返した。
その二人を見て、マズイ、とアリサは直感する。
このまま放って置くと二人だけの空間を作ってしまいかねない。
フェイト転入からの約二ヶ月でそれを嫌というほど理解しまくっているアリサは、二人の間に即座に割って入った。
「で、その何とかフィールドはなのはやフェイトは使えないわけ?」
「あ、……うん。結界系は苦手なものでして」
「あれは結構細かい操作が要るから、わたしも……」
「って、ちょっと! ユーノって、あんたたちより魔法上手いわけ? フェレットから変身できるだけじゃなかったの!?」
突如、アリサ両手を机に叩きつけた。どうにも聞き捨てならないことがあったらしい。
しかしフェイトは何が理由か分からず首を傾げた。もしかすると何か勘違いがあるのかもしれない。魔法の概要は既に話したが、まだ説明し切れていないことも多い。
そうして思考を巡らしながらも原因を突き止める前に、フェイトの脇から声が上がった。
なのはである。
彼女はまたフェイトとは別の点で重大な誤解に気付いていた。
「アリサちゃん、フェレットから、じゃなくて、フェレットに! 人間形態が元の姿なんだから」
「そんなことはどうでもいいわよ!」
「どうでもよくないよぅ……」
彼女にしては割と大声での訂正は、敢え無く一言で切り捨てられた。即答されて沈む高町なのは(AAAオーバーの魔導師)。
アリサは最早なのはに構わず、再度机を叩く。
「あの撫で心地のユーノがなのはたちみたいにとんでもないものを撃つなんて、そんなの認めないわよ!」
どうやら魔法と聞いて例の打ち上げ花火を基準にしているらしいと、そこまで聞いてフェイトはようやく理解した。
アリサにとっては、ユーノのように可愛がる相手の小動物が大砲を撃つようなことはあってはならないということだろうか。
とにかく誤解を解くべく、フェイトはまだしていなかた解説を試みる。
「えっと、そうじゃないの。ユーノはわたしたちみたいに攻撃魔法は使えないんだ」
「? どういうことよ? 同じ魔法でしょ。――それとも、細かい分類とかあったりするわけ?」
魔法の性質の一部を話し始めたフェイトだったが、アリサは早々に理由に当たりをつけて来た。平然とテスト全教科満点を取ってくる頭脳は伊達ではないらしい。
さすがだな、とフェイトは感心しながら、思ったより早く終わりそうになった説明を続ける。
「うん、そう。わたしやなのはの魔法はだいたい攻撃魔法で、さっきのフローターフィールドは結界魔法って種類。
それで、わたしたちは攻撃魔法は得意なんだけど、結界魔法はそうでもなくて……」
「ユーノは攻撃が苦手な代わり、その結界魔法とやらが得意ってことなのね」
「うん」
「そうそう、ユーノくんは補助系とか防御系が得意なんだよ。わたしもよく教えてもらってたんだ」
先ほどの衝撃から立ち直ったなのはは、自慢するようにユーノのことを話し始めた。
とはいえ教わってもあまり出来る様になっていないことを思い出し、一人でまたも沈みかける。
そんななのはを引き上げたのは、なにやら納得したようにポン、とはやてが手を合わせた音だった。
尤も、それに続く言葉は逆の威力を秘めたものだったが。
「なるほど。なのはちゃんが冗談みたいに防御堅いんはユーノくんのせいやったんか」
「冗談みたいって……」
その言い草にまたしても反論を試みるなのはだったが、反対側で乾いた笑いを浮かべているフェイトを見つけてしまう。
そこからはやてに同意する意図を見て取り、フェイトちゃんまで、と肩を落とした。
「自然な感想やと思うで。あんな大きい魔力の直撃受けて無傷なんて、申し訳なく思う前に自信なくすで、まったく」
それは、先日のはやての魔法練習のことである。
はやてが管理局任務を行うに当たり、適当なデバイスの選定が問題になっていた。
そこでひとまず局員汎用のストレージデバイスを借りて魔法を使ってみることになったのだが、その時はやてはまだ術式の展開を思うようには出来ず、まずは魔力を引き出すところから始めた。
原因を指摘するとしたら、その出発点だろう。
なのはやフェイトに匹敵する魔力の持ち主だったはやては、加減というものが出来るほど魔力の扱いに慣れていなかったのだ。
そのためチャージされていく魔力量は一般の局員を遥かに超え、デバイスが耐え切れずに暴発を起こす。
そして蓄えられた魔力は、さながら砲撃のように撃ち出された。
結界内、しかも純粋魔力攻撃なのでそのままなら物理被害はないはずだったが、運悪く射線上にいたのが見学に来ていたなのはとフェイトの二人。
その二人に、はやての巨大な魔力が直撃した。その魔力量、優にAAAクラス。
当然その場の誰もが安否を心配し、恐る恐る結果を見守った。
そのうちに煙が晴れ、現れたのが――――フェイトの前に無傷でレイジングハートを構えるなのはだった。
みんなが唖然呆然する中、レイジングハートが魔力の残滓を排気して、パシューと乾いた音が響いたことは記憶に新しい。
ちなみにそれ以来、はやてはデバイスを特注することになり、また自力での魔法訓練に力を入れることとなったのだった。
「あの時はありがとう、なのは。……実を言うと、防ぎきっちゃうとは、思わなかったんだけど」
「ちょ、ちょっと待って! 前にも言ったけど、あの時は防御魔法を準備してたんだってば!
わたしも魔力の制御失敗したことあったから、念のために――だから、いきなりだったら防げてないよ!」
勢い込んで力説したが、両脇からジト目を向けられてあっけなくたじろぐ高町なのは(AAAオーバーの魔導師)。
想いを交わそうとする時には頑固なほど自分を曲げないのだが、平時では微妙に押しが弱いらしかった。
そんな少女を見やる二人は、あの魔力量を防いだこと自体とんでもないと理解してるんだろうかと疑いを抱く。
いや、理解してないだろうと、その堅さを身をもって知っていたり目の前で見せ付けられたりした魔導師二名は内心で同じ結論に達した。
「……なのはちゃん、高速防御で防いでたら自信なくすどころの騒ぎやないで。あれだけでも十分や」
「わたしのファランクスシフトも耐え切ったしね。カートリッジシステム導入する前に」
「そ、そう言われましても……」
「っていうか、そもそも何で攻撃とか防御なんて単語が普通に出てくるのよ」
「みんな、怪我しないでね……?」
俄かに真剣みを増して口を挟んだのはアリサとすずかの一般人二名。
尤も、平然とテスト全教科満点を取ったり、戦闘魔導師相手に学校の体育とはいえ勝ってみせる少女達を一般人と呼ぶかは疑問が残るが。
「まあ別に、なのは達が決めた道なんだし、アタシからどうこう言う気はないけど」
「うん。でも、やっぱり心配かな。危険なこととかも、あるでしょう?」
その言葉に、はっとなのはとフェイト、はやての三人が息を呑んだ。
魔導師としての働くことを決めた友人たちに、すずかは言葉どおり心配そうな顔を見せ、アリサはわざと顔を背けながらも視線だけは外さずにいる。
その本気の気遣いに、なのはたちは胸が暖かくなるのを感じていた。
「……大丈夫だよ。わたしたちは、どこにもいかない」
「友達だから。少し離れることがあっても、必ずここに戻ってくる」
「みんなと一緒に平和にいられる日常が、わたしたちの帰る場所やから」
「……うん」
「そうね――そうよね」
穏やかな空気が広がっていた所に、コンコンと、扉を叩く音が響いてきた。
返事をしたすずかに応じて、ファリンがドアを開いた。
「みなさん、お茶をお持ちしました」
話が一段楽するのに合わせたようなタイミングで、声と共にお盆を持ったファリンが部屋に入ってくる。
五人の前にカップを置いて紅茶を注ぎ、中央にお菓子を置いていった。
「それでは失礼します。何か御用があれば、いつでも呼んでくださいね」
「うん。ありがとう、ファリン」
すずかの声を背に、優雅に一礼したファリンはお盆を片手に部屋を出て行く。
その後姿を、はやては物珍しそうに眺めていた。
「うーん、やっぱりメイドさんゆうんは、何や格好ええなぁ」
「そう、かな?」
「……あ、そっか。はやてはまだ見たことないんだっけ」
「え? 何がや?」
微妙な疑問符を浮かべ、次いで納得するすずかやアリサ……さらにはなのはやフェイトも同じような表情だった。
自分以外は知ってる何かがあるのかと不思議に思ったはやての耳に、その声が届く。
「わわっ、ごめんなさい尻尾踏んじゃって――――ひゃ、追いかけないで下さい――――ってわきゃぅっ!?」
ドタンガチャンニャーと人が倒れたり物が落ちたり猫が鳴いたりする音なんかがごっちゃになって響いてきた。
「………………なんや、聞き間違いやなければ、さっきのメイドさんの声みたいなんやけど」
「うん……、大丈夫、聞き間違いじゃないよ」
「別の意味で大丈夫やなさそうなんやけど……」
「うん、と、心配しなくても平気だよ」
「そうそう、いつものことだし」
「い、いつものことなんか……?」
アリサの台詞に横を見れば、なのはとフェイトも困ったような笑みを浮かべるだけで否定しなかった。
「で、でも、あれ、倒れたんとちゃう……? 様子見てきた方が……」
「それも、大丈夫。多分、そろそろ……」
「ファリン、まったくあなたって子は……」
「あ、ご、ごめんなさいおねーさま! すぐ片付けますです! はいー!」
「……なんや、元気そうやな」
「うん。何だか、結構丈夫なんだって」
「そうなんか……」
生返事を返しながら、はやての中でメイドさんのイメージがガラガラと崩壊していったのであった。
# # # # #
何度目かの紅茶のお代わりをした時、話を弾めていた中に軽やかな電子音が響いた。
ピロロロというオーソドックスな着信音は、はやてが発信源だ。
「あ、わたしや。ちょっと待っててな」
この時間ならうちの子たちやろかと思いながらはやては携帯を取り出す。
案の定、画面ははシャマルからのメール着信を告げていた。
「ん、シャマルからや。四人揃って今家に着いたとこやって」
「じゃあ、そろそろ練習本番だね」
そう言ったすずかに頷いたはやては、それから、と前置きして告げる。
「みんな、ゴメンな。折角集まれたのに、わたしの都合で途中で抜けてまうことになってしもて」
「ううん。気にしないで」
「そうそう」
「まぁ、集まる機会はまたあるでしょうし」
「だね」
口々に返ってくる言葉に、はやては頬を綻ばせた。
「まあ、とゆーても家からやとまだ少し時間あるやろうから」
「15分くらいはかかるかな……? お迎え、出さなくて大丈夫?」
「うん、平気やよー。みんなだいぶこっちの乗り物にも――――っ?」
慣れたみたいや、と続く言葉を、はやては微かな感覚を得て飲み込んだ。
周りはその様子を訝るが、なのはとフェイトはすぐにその理由を感じ取る。
「この感覚って……」
「――――来る」
「え?」
「来るって何が……」
事態についていけず疑問符を浮かべるすずかとアリサは、部屋の一角に光が現れるのを目撃する。
そして次の瞬間、光の中から四つの影が現れた。
タイミング的に当然というか、全員が全員見覚えのある姿だった。
八神はやての家族達、守護騎士一同である。
「はやてーっ」
「おっと。お疲れさんやな、ヴィータ」
「ううん、全然!」
「そうかー。それにしても……」
現れるや否や飛び込んでくる赤毛の少女を抱きとめたはやては、自分の家族達に若干呆れた風に言う。
「……みんな、わざわざ転移してきたんか」
「はい。主はやてを待てせるわけにもいかぬと思い」
「そんな急がんでも――まあ来てしもたんやし、ええか」
「すずかちゃんと顔を会わせるのも久しぶりかしら」
「そうですね。シャマルさんもお元気そうでよかったです」
「すずかちゃんもね。それと、ごめんなさい。こんなに急に来ちゃって」
「いえいえ。お気になさらず」
「おっ、ザフィーラじゃない」
「……(びくっ)」
「あんたの撫で心地も結構いい感じなのよねー。ちょっと触らせてもらうわよ」
「…………(微妙に逃げ腰)」
事情を説明するシグナムの脇で、シャマルとすずかが和やかに挨拶を交わしていたり、蒼い巨体を僅かに引いたザフィーラの毛並みをアリサが撫で繰り回していたりした。
何もないところにいきなり人が現れたというのに、全く動じてない面々である。やはり一般人と呼ぶには無理がないか。
「うーん……」
「どうしたの、なのは」
「うん、二人とも、何かとっても自然に溶け込んでるから」
「全然驚かなかったよね」
「凄いというか、何というか……」
「あはは……」
苦笑いを浮かべ、さすがなのはの親友になっただけのことはある、などと思っているフェイトであった。
そして、そんな二人の会話を聞きつけたのか、はやてにくっついてたヴィータと説明を終えたシグナムが向いてくる。
「あ、なんだ。なのはもいたのか」
「い、いるよー! もぅ、ヴィータちゃんってば相変わらずなんだから……」
「テスタロッサか」
「シグナム……。どうですか、局の方は」
「ああ、面接や試験など諸々の手続きももうすぐ終わる。そうなれば時間も空くだろう。――それまで、腕を磨いておくといい」
「はい、もちろんです」
何やら穏やかでない相談をしてるような気もしたはやてだったが、とりあえず後にまわす。
一巡り周りを見渡し大体挨拶は済んだと思うと、皆に声をかけた。
「ほんならそろそろ始めようかと思うんやけど、ええかなー」
「あ、それならわたしが」
呼びかけにすぐに応じたシャマルが、はやての後ろに回って車椅子のハンドルを握る。
守護騎士たちが集まった目的、すなわちはやての飛行練習は外で行うため、屋敷を出る必要があるのだ。
シャマルに続いて他の騎士たちになのはとフェイトも動き出すのを見て、アリサとすずかは顔を見合わせた。考えはすぐに通じる。
「ええと、わたしたちもついてっていいのかな……?」
「ああ、もちろんやで。すずかちゃんとアリサちゃんも一緒に行こ」
「うん、そうこなくっちゃ!」
二人を加えて総勢九人(正確には八人と一匹)となって、ぞろぞろと部屋を出る。
移動途中出会ったファリンが、あのドトバタはなかったかのように前見たときと同じ姿で、廊下を歩く大人数を見てわぁっと驚いていたが、月村家の家族には魔法のことも含め全て話は通っている。
すずかと二三、言葉を交わして去っていく姿を見送るはやての目は、微妙に一時間前とは違っていたとか。
「はやてちゃん、もすうぐですけど、どうですか」
「んー、そうやなぁ。緊張しとるといえば、しとるのかもな。前ん時は無我夢中やったしなー」
「はやてならきっと上手くいくよ。大丈夫!」
「あはは、ありがとヴィータ。ああ、そや」
無邪気に応援してくれるヴィータを撫でながら、はやては騎士たちの方を見る。
「初めて飛んだときどない感じだったか、ちょうみんなに聞いてみたいかな。シグナムたちは……覚えてへんかな」
「そう、ですね。記憶している限りでは既に飛行魔法を使っています。お役に立てずに、すみません」
「ああ、ええって。ちょっとした参考程度やから。――なのはちゃんとフェイトちゃんは、どうや?」
「うーん、と、わたしの時は……」
問われ、なのはは記憶を探るように目線を泳がした。思い出すのは去年のことである。
「初めての時はレイジングハートの助けを借りながらだったから、あんまり飛ぶこと自体は大変じゃなかったかなぁ。
というより、それり大変なことがあったというか……」
「どないしたん?」
「うーん、実は結界張ってなくて、人に見つかりそうになっちゃったんだ。あの時はすっごく焦ったなぁ」
「わ、なのは、間抜けだー」
「こら、ヴィータ。あんまそないなこと言ったらあかんで」
「はぁーい」
はやてに窘められるヴィータを言い返しもせず眺めるなのは。自覚があるだけに反論できないのであった。
その視界に金の長髪を揺らす親友が入り、ふと別の記憶が浮かび上がってきた。
「そういえば、最初に実戦で飛行魔法を使ったのは、初めてフェイトちゃんと会った時なんだよ」
「え、そうなの? もっと使い慣れてる感じだったのに」
「にゃはは……まあ、あの頃は色々と無我夢中だったから。そうそう、それもすずかちゃん家のお庭だったんだよね」
「そうだったね。――うん、あの時なのはに出会えたから、今のわたしがいるんだよね」
「フェイトちゃん……」
「なのは……」
「はいはいストーーップ!!」
器用にも歩きながら見詰め合っていたなのはとフェイトの間に、アリサが体ごと割り込ませた。
急な大声にきょとんとする二人に呆れ返ったように言う。
「いい加減所構わずイチャイチャするのは止めなさいっ! 二人だけの時ならともかく、今は主役が別にいるでしょう!」
「にゃ、にゃはは……そうでしたー……」
「ええと、ゴメン、はやて」
「あはは、別にええよー。二人がとっても仲良しさんなんはよう分かっとるから」
「はあ、全く……。ほら、次はフェイトの番でしょ。飛行体験談」
「あ、うん、そうだね」
「うん、よろしく頼むわー」
ええと、と間を持たせるように呟いて、フェイトも記憶を遡り出す。
昔を振り返ることに以前ほど抵抗を感じなくなってきている。そのことを実感しながらも今は胸に秘め、求める光景を思い起こした。
「もう、二年以上前かな……。あの頃はまだアルフもいなくて、バルディッシュもなかったから、リニスに教わって使ったんだ。
あの辺は緑が多くて、湖が近くて、初めて空から見た景色がとっても綺麗だった。……あっ、でも――」
楽しかった時間を優しく紐解くように語っていくフェイトだったが、急に何かを思い出したように言葉を切った。
そしてみるみるうちに、何か悪戯でも見つけられたような表情に変わっていく。
要するに思い出したくないことを思い出したのだが、周りからの視線は続きが促しており、フェイトは諦めて口を開いた。
「途中でスピード上げすぎちゃって、止まらなくなって…………湖に落ちたんだ……」
「「…………」」
一瞬の空白が間に落ちた。
そしてすぐに、周りから驚きやら感嘆やらの混ざった声が上がる。フェイトのこんな失敗――特に魔法に関しては珍しいのだ。
皆の反応に思いっきり顔を伏せて縮こまるフェイトだったが、隣を歩くなのはに話しかけられ意識だけは引き戻す。
「その話は初めて聞いたなぁ。でも、湖に落ちたって、大丈夫だったの?」
「あ……うん。リニスにフィールド魔法をかけてもらってたし、すぐに助けてもらったから」
「そっか」
答えは返すものの、フェイトは顔を上げられずにいた。
思いもかけず話すことになった失敗談。
なのはやはやて達に聞かれる分にはまだいい。恥ずかしいことは恥ずかしいが、それでどうこうということもない。
だが、ただ一人、反応が気になる相手がいる。
「え、と……」
顔は半分ほど伏せたままフェイトが上目遣いで様子を窺う先にいるのは、桃色の髪をなびかせる長身の女性。
「シグ、ナム……?」
恐る恐る、自分よりもずっと高い位置にある相手の顔を仰ぎ見る。
シグナムには出来れば聞かれたくなかったとフェイトは思っていた。
彼女とは戦いの中で互いの実力を認め合ったのである。
だからこそ、こんな簡単なミスをした話を聞いて失望するのではないかと心配になる。
不安げに見つめる相手は、何故か頷き、どこか納得した様子で口を開いた。
「なるほど。テスタロッサのスピード狂は、筋金入りのようだな」
………………はい?
「って、えっ? えっ!? ス、スピード狂って、そんな……」
「――違うのか?」
「真顔で聞き返さないで下さい……」
「ふむ……?」
失望されなかったことを喜ぶべきか、妙な名で呼ばれたことを嘆くべきか。
相反した感情が絶妙にブレンドされた表情の少女と、心底不思議そうにしている女性という、何ともな構図が一部に出来あがっていた。
「あはは、何や二人とも色々やらかしてたんやなー」
「そうですね」
はやては顔を上げて、車椅子を押すシャマルを笑いあう。
ただ、何となく気分が軽くなったような気もしていた。
魔導師としては自分の先輩にあたるなのはとフェイト。その二人でも最初はそんなものだと聞いて安心したようだ。
まあ、逆にその二人でも初めは失敗するものだとも考えられるわけで。
「むしろ不安になんらでもないかなぁ」
「はやてはあんなヘマしないよ。ねーはやてー」
「あはは、そうやとええなー」
そんなこんなで話しながら、ようやく玄関に到着する。
両開きの扉をくぐり抜けて見上げれば、頭上には相変わらずの白い雲。しかし薄いのか十分明るく、風もあまり吹いていないようだ。
とはいえ屋内に比べれば寒いのは当然で、それぞれ持って来ていた上着を羽織っていく。
ただ一人、ヴィータだけは見るからに寒そうな薄着のままだったが。
いつもならはやてが無理にでも着せるのだが、今日は家から直行だったためそんな暇はなかったのだった。
「で、具体的にどうするわけ? 結界っていったっけ、あれ使うの?」
「うん、そやよ。ザフィーラ、結界展開、お願いしてええか」
「無論です。我が主」
はやてに声に応じて、盾の守護獣が一歩前に出る。
集中するように眼を閉じ、次に開いたときには足元に光が展開した。
中心と頂点に円を抱く正三角形。青きベルカ式魔法陣。
「――――封鎖領域、展開」
瞬間、世界が隔離された。魔力を持たない人間からは認識されない空間へと。
封鎖領域は術者が選択した条件に見合う対象を残すタイプの結界魔法である。なのはやフェイトはかつて脱出に苦労した経験のある魔法だが、それも昔の話。
今では単に一般人に見られないようにするだけで、結界が展開されることに危険を覚えることもない。
「ご苦労様、ザフィーラ」
「はい」
下がるザフィーラに代わり、シャマルが車椅子を押してはやてを前に出し、そこで半回転させ皆の方に向き直させる。
いよいよ飛行魔法の実践に移ろうとしているが、その格好を見てフェイトが声を上げた。
「あれ、はやて、バリアジャケット――じゃなくて、騎士甲冑はつけないの?」
「ん、ああ。実はまだ甲冑の維持はできへんのよ。あの魔法、防護フィールドの常時展開なんて、あんな面倒やとは思わなかったわ。
それでもみんなに来てもらっとるから、万一制御に失敗しても大丈夫やと思っとんやけど」
「えっと、それなら、ちょっと待ってて」
話を聞いたフェイトは、両手を前で構えながらポケットに収められた逆三角の水晶に意識と魔力を向けた。
彼女のデバイス、バルディッシュ・アサルトは待機状態ながらも多少の魔法サポート能力を持つ。
愛杖の助けを借りながら発動する術式に乗せられた魔力は、彼女の手の内にてその効果を現出させた。
生まれたのは、一見では黒い塊のようなもの。しかしフェイトがその手を振るえば、それが漆黒のマントとなってばさりと翻った。
「フェイトちゃん、それって……」
「うん。わたしのバリアジャケット。一部分だけだし、離れると効果も少し弱まるけど、役に立つと思う。防寒にもなるし――」
「ち、ちょっと待てください!」
簡単に防護服を出して見せたフェイトにしきりに感心していたはやてだったが、顔のすぐ後ろから大きな声が出てきて首を傾げた。
見れば、他の騎士たちも多かれ少なかれ驚いている様子である。
「甲冑、じゃかなった、バリアジャケットって、貸し借りできるようなものなんですかっ?」
「え? えと、それはまあ、できますけど……」
「……みんなっ!」
防護服を自分から離して使うことなど、シャマルの知識にはなかった。できるのなら既にはやての為に用意している。
騎士甲冑生成は分類すれば補助魔法。サポート特化型騎士として自分の存在価値に疑念を抱きかけたシャマルは、同じ騎士仲間に救いを求めるように視線を向けた。
とはいえ、シグナム達に出来ればどうこうなるわけでもないのだが。
ちなみに、その返答は以下の通り。
「…………」無言のまま首を振るザフィーラ。
「聞いたことねー」と興味なさげに答えるヴィータ。
「そもそも、後方支援のエキスパートであるお前ができないようなことを、我らにできるはずもない」
最後にシグナムに駄目だしされ、シャマルは目に見えて気落ちした。背後に浮遊霊でも浮かびそうな勢いである。
慌てたのはフェイトだ。自分がやったことがこんなに影響するとは思いもしなかった。
頭をフル回転させて何とか理由を考え抜く。
「た、多分、ベルカ式は個人戦闘に特化した術式だから、汎用性の高いミッド式より応用が利きづらいんじゃないじゃないかな、と……」
「それはそうかもしれないですけど……わたしが補助魔法で遅れを取るなんて……」
「まあまあ、シャマルはそんな落ち込まんで。そんなに気になるんなら、これから出来るようになればええやん」
「……な、なるほど、それはいい考えですねっ。そうです、これから出来るようになればいんですよね。ミッド式補助魔法全制覇するつもりでっ」
「その意気やでー」
何やら意気込むシャマルにエールを送ったはやては、フェイトから受け取ったマントを羽織った。
車椅子に乗りながらでも慣れたもので、器用に着終える。
その時、さっきから何やら一人で色々思案していたなのはが顔を上げた。
「ええと、こんな感じかな……?」
そう言うと、訝る周りを気にせず意識を集中、術式を開放した。
なのはの魔力ははやての上半身に集まり、そこで効果を成す。
光と共に生み出されたのは白い上着だった。
「やったっ、成功!」
「お、これはなのはちゃんのバリアジャケットやな?」
「うん。ちょっと調整に時間がかかっちゃったけど――」
「なのはっ! なんでてめえができんだよっ!!」
「ええっ!?」
いきなりのヴィータの大声を食らい、思わず後ずさるなのは。
「なっ、何でわたしだけー!?」
「うるせえっ! 一枚ありゃ十分だろうが!」
「そ、そう言われればそうかも知れないけど……。でもっ、念には念をっていうでしょ」
「余計だっていってんだよっ!」
「そんなーっ!?」
なのはに食って掛かるヴィータを、しょうがないなーなんて思いながらもはやては少しの間見つめていた。
防護服はないよりはあった方が安全だ。だけどヴィータは、自分の騎士服で守ることが出来ない。
にも関わらずなのはには出来て、きっとそのことが悔しいのだろう。
その感情が向くのがなのはだけというのがあの子らしいが、自分を心配していることには変わらず、はやては何とも頬が緩むのを感じながらようやくなのはを追い掛け回すヴィータを引き止めた。
「ほらほら、ヴィータ。もうその辺にしとき」
「だって、こいつがー!」
「ええやん。いざって時、防護服は多い方が安心やろ。だから今は使わせてもらお、な」
「うー……。はやてがそう言うなら」
明らかにしぶしぶといった様子で引き下がるヴィータを微笑ましげに見たはやては、なのはに目を移した。
「そういうわけで、有り難く使わせてもらうな」
「うん。……って、あっ!」
「? どないしたん?」
はやての姿を見て急に驚いた様子を見せるなのはは、にゃはは、と苦笑しながら答えた。
「フェイトちゃんのマントの上に作っちゃったから、変な格好になっちゃった……」
「ん? ……ああ、ホンマや」
自分の体に目線を降ろしたはやては、なのはの言葉を実感した。
確かにマントを羽織ったその上に白いジャケットが現れため、特に背中の方がごわついている。
改めて羽織るのも面倒だが。今は座った状態なので良く分からないが、飛んだ状態だととうなっていることか―――
「―――ん、まあこのままでええわ」
「そう……? 着なおすなら手伝うけど……」
「ううん、大丈夫やよ」
「ほら見ろ、だから余計だって言ったんだよ」
「これ、ヴィータ。その辺にしとき言うたやろ」
「はぁーい」
ヴィータの茶々が入り微妙に釈然としないなのはだったが、はやても無理をしている風ではなさそうだった。
それならということでひとまず引き下がり、多少いびつだがバリアジャケットも装着し終えている。
これではやての準備も整った。
「ほんなら、そろそろ始めようか」
はやてはそう告げ、目を閉じた。
意識を集中。
飛行魔法の術式を記憶から呼び起こす。
――はやての足元、車椅子の下に白い三角の魔法陣が広がった。
魔力を引き出し、術式に乗せていく。
流れる魔力がエネルギー源となり、術式は起動する。
――はやてと椅子の背の間から、押し出されるように光が漏れた。
発動プロセスは最終段階へと移行する。
ボイスコマンドが発動の引き金となり、魔法は現象を引き起こす。
――「スレイプニール」
皆が固唾を呑んで見守る中、はやては両手を車椅子にかけ、立ち上がるように体を起こした。
いまだ体を支えるほどには回復していない両足だが、今は体重に負けることなく直立の状態を保っている。
いや、足は地についていない。
僅かだが、はやての体は地上から離れていた。
はやての背中で、自由を得たように翼が震えた。三対の、漆黒の翼が。
「……わぉ」
アリサが思わず息が漏らす。
その声に答えるように、はやてはゆっくりと目を開けた。
微笑を浮かべる。呼応するようにして、翼が羽ばたいた。
黒い羽根が、風に舞うようにふわりと揺れる。
「きれい……」
そう口にしたのはすずかの、まさしくその言葉どおりだった。
はやての翼は、黒という色の持つ不吉さとはかけ離れた、どこか幻想的な印象を与えている。
初めてはやてが一人で飛ぶ所を見て、なのはやフェイトも感嘆している。
しかしその傍らで、シグナムを筆頭にはやての家族達は安心しきってはいなかった。
多くの者達に見守られて宙を浮くはやては、もう一度瞳を閉じる。
ここまでは、いつも通り。家でも練習した段階だ。
問題はここからである。ただ浮くだけでなく、空を飛ぶ。高く、どこまでも広がる空を。
そのために、今日ここにいるのだから。
飛行魔法の維持に気を配りながら、はやては再び意識を集中する。
イメージするのは自分が飛ぶ姿。かつて、思い通りに空を舞った姿。
それは、文字通りあの子と一つになって飛んだ姿。
(――リインフォース)
その名を、心の内に響かせた。
遥かな時の中で、幾度もその時々の主を蝕み、破壊を撒き散らすことしかできずに。
止めたいと願いながらも叶う事無く、寂しく、悲しい想いを重ねてきて。
それでも優しい心を宿していた、少し泣き虫だったリインフォース。
その悲しみを断ち切って、そして幸せにしようと思っていた。
みんなで一緒に、もっともっと幸せに暮らしていこうと、そう思っていた。
だけど、彼女は。
リインフォースは、天に昇る旅を選んだ。
近い将来に主人を襲うであろう、暴走という危険と連れ立って。
(リイン、フォース)
そうやって、八神はやてはリインフォースに守られた。
それなら、幸せにしたいと願った相手に守られた自分は、どうすればいいのだろう。
何をもって、彼女に応えればいいのだろう。
(リインフォース)
両手を胸の前へと伸ばし、剣十字のペンダントを包みこむ。
自分を守りぬいた彼女が遺したものは、このペンダントと、魔法の記憶。
最期まで主人の身を案じていたリインフォース。
そんな彼女を、これ以上、心配させたくない。
だから、これからも笑っていよう。元気でいよう。そして、
――彼女が遺してくれた力を、大事に使っていこう。
それがきっと、リインフォースに応えるために、自分が出来ることなのだろうから。
目を開け、視線を上げる。
今は白い雲に阻まれているが、はやては知っている。
その向こうに、どこまでも広がる空があることを。
この大空を飛ぶことは、きっと、その一歩となる。
遺された力を使っていく、その一歩に。
だから、飛び立とう。
飛んで、リインフォースに見せるのだ。
あなたのお陰で、自分はこれだけのことができるようになったのだと。
ばさり、と翼をはためかせる。
視界に映る空を目指し、上へと飛ぶ。飛び立つ。
浮遊感は思っていたより緩やかだった。
慎重に魔法を操作しながら、空を目指す。
そしてふと気付けば、もう月村宅の屋根を越えるほどの高さだった。
上昇を止める。そして、落ちないように高度を維持する。
成功だ。
今、自分は空にいる。飛んでいる。
リインフォースの遺した魔法を使って。
「…………ん?」
わっ、と湧き上がるような歓声が耳に届いた。
魔法の制御が疎かにならないよう注意を払いながら、下で見上げる家族と友人たちに目を向ける。
すずかやアリサは感激したような羨むような様子で、なのはとフェイトも笑顔で喜んでくれている。
ヴィータは大声で名を呼びながら思い切り手を振っているが、シャマルは少し不安そうで、ザフィーラも表情は窺えないが同じような感じだった。
シグナムに至っては何かあればすぐ飛び出せるよう、身構えているようである。
皆が自分を見守っていると、そう思える光景だった。
「あはは……っ」
自然と笑みが浮かんでくる。
その思いのまま、魔法で動きを作ってみた。
翼をはためかせ、ふわりと緩やかに円を描くように飛ぶ。
高度を維持したままの曲線飛行も、思っていたよりスムーズにいき、空中で一周して元の位置に戻ってくる。
再び地上から歓声と、いくつかの驚いた声が響いてきた。
「んー、思ったとおりやったみたいやなー」
見れば、驚いているのはなのはとフェイトと、自分の家族達……つまり、アリサとすずか以外全員だ。
彼女らに共通しているのは、以前リインフォースと融合した時の姿を見ていることである。
「白い上着と、腰の辺りから出ているマント……」
自分で口にして、その状態を想像し、やはりそうだと納得する。
前からではそうでもないが、この姿を後ろから見れば、あの時の騎士甲冑によく似ていることだろう。
細部の色合いは異なるとはいえ、後姿だけなら大体の意匠は同じようになっている。
空中で旋回して背面が見えるようになって、そのことに皆も気付いたはずだ。
「なあ。見えとるか、リインフォース」
雲の向こうを見通すように、視線を上げた。
その視線の先に、何の不安もない透き通った口調で、感謝を込めて、語りかける。
「わたしは今、飛んでるんやで。リインフォースが遺してくれた力のお陰や。
家の子達やなのはちゃん達にも応援されて、その上いざって時の為に、バリアジャケットまで貸してくれて」
一度言葉を止め、地上に目を向けた。
空を飛ぶ自分を、みんなが喜んだり心配してくれているのが見て取れる。
そんな大切な人たちに笑みを返して、そのまま空へと視線を戻した。
「――――せやから、わたしは大丈夫や。安心して、お空の上から見守っててな、リインフォース」
語り終えてからどれだけたっただろうか。
しばらく空を眺めていたはやては、ようやく視線を下ろした。
そろそろ一度降りた方がいいだろう。ずっと一箇所にいるままだと心配するだろうから。
そう思い、向きの転換に取り掛かろうとした時に。
一陣の風が吹いた。
「――っ」
思わず目を瞑り、体を固くした。
風で制御を誤るようなことがあっては一大事だ。
少し焦りながらも、飛行が維持できるように意識を魔法の制御に集中する。
「……?」
しかし、風は優しく包み込むかのように体の周りを吹いただけで、全くこちらのバランスを崩さなかった。
なぜだろうと不思議に思いながら目を開けたはやては、その視界に白く舞うものを見つける。
「これは……、雪……?」
驚き目を見開くはやての前で、ふわ、と真白い小片が風に揺れる。
あの子が空に昇ったあの時のように、静かに雪が振っていた。
「祝福の風――――そういうこと、やったんかな」
どこか問いかけるような口調で、はやては呟いた。
見上げる空からは、雪がただ穏やかに舞い降りてきている。
「ふふ……っ」
はやては笑みを浮かべた。
懐かしそうに、満足そうに、深い愛情を込めた笑みを。
そのままあの風を刻み込むように体を抱きしめる。
再び手を広げた時には、もう地上へと姿勢を変えていた。
――――帰ろう。みんなの所に。
自分を待っている大切な人達を目に留める。
そして翼をはためかせ、彼女たちの元へと、はやては飛び出していく。
空の上で、雪を纏った穏やかな風が、ふわりと踊っていた。
あとがき
どうも、Ryoです。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
久々の投稿になりましたが、いかがだったでしょうか。
はやてメインで、舞台はなのは本編(エピローグ除く)の一ヵ月後のある日。
いつのまにか総登場人物が二桁に及ぶ事態になってしまいました。
ファリンとか知られてますかね?
アニメオリジナルキャラのくせに1期の4、5話で少し喋って以来、稀に顔を出す程度だったので知名度低そうですが、リリカルなのはでは貴重なドジっ子です。
月村家に来て出さない手はありません。
1期から一年近く経ってるので普段の振る舞いはだいぶ洗練されつつありますが、気を抜くとやっぱり何かやらかします。
ちなみに彼女がおねーさまと呼ぶのはノエル。今回台詞は一回だけでした。
後はあれですね、はやての飛行衣装。
実の所、設定画を並べながら想像しただけです。画像を取り込んで加工するなんてことは出来ないのです。
ですので、実際に画像を作ってみたら全然違うじゃないか、とか言われても反論しようがないので、そこはひとつ。
さて、次は今回ちょっぴりネタ振りしたことを書こうかと思っています。
なるべく早く仕上げられるよう目標を立てつつ、今回はこれにて。
それでは〜